奔放に遊ぶトム・リプリー(アラン・ドロン)とフィリップ・グリンリーフ(モーリス・ロネ) 【太陽がいっぱい】
冒頭、フィリップ(モーリス・ロネ)はイタリアの景勝地(観光地)タオルミーナ(字幕ではタオルミナ)に旅行することを友人・フレディに伝えている。
イタリアのシチリア島に位置するタオルミーナは現在でも有名な観光地である。フィリップはそんな観光地に気軽に滞在できる「金持ちの息子」として描かれる。
一方、トム・リプリー(アラン・ドロン)はというと、フィリップとは対比的に、少なくとも映画では、貧乏では無いが金持ちでも無い一般的な家庭で育った人物に見える。(※「太陽がいっぱい」の原作は “The Talented Mr.Ripley”という小説である)
映画の序盤でフィリップとトムは街でナンパし、オープンカーに女性を乗せ、クラブで遊んで過ごす。2人の奔放な生き様が描かれる。
人殺しを重ねてゆくピカレスク、トム・リプリー(アラン・ドロン) 【太陽がいっぱい】
【41分】リプリーは最初の殺人を犯す。親友であったフィリップを殺す衝撃的な展開だ。この事件前までは恋愛ドラマの様相を呈していたのに、この事件で物語は一気に動きサスペンス映画であることが印象づけられる。
その後もリプリーはフィリップの遺体を布でくるんでワイヤで縛り、さらにワイヤと碇を繋いで海へ放る。なかなか計画的で狡猾な悪人である。
完全犯罪に成功したリプリーはフィリップに扮して生活を続けている。ところが、フィリップの旧知の友人・フレディがやってきて、フィリップを探す。
【70分】フィリップに扮していることがばれることを恐れたリプリーはフレディを殺す。
珍妙な小道具 東洋的だが日本的では無い仏像 【太陽がいっぱい】
リプリーがフレディを殺した現場は滞在していたホテルの一室だった。その時にリプリーが選んだ武器は部屋の調度品の仏像だった。
この仏像は焼物で緑色に光っており、木造の仏像と違って威厳が無い。とてもコミカルな顏をしていて笑ってしまった。この小道具のせいで吹き出してしまい、せっかくのサスペンスが台無しになるところだった。
市場の散歩がコメディリリーフの役割を果たす 【太陽がいっぱい】
【62分】トムが市場を巡るシーンが挿入される。このシーンは120分ほどの映画の中でちょうど中間に位置している。【41分】の「友人殺し」からは息もつかせずハラハラする本作の中で、数少ない息を抜けるシーンであり、コメディリリーフの役割を果たしていると言える。
また、1960年当時のイタリア(イタリアの中でも、ロケ地はおそらく南部の方)を知れる貴重な映像資料にも思える。
現代では通じない描写 電話の交換と時代の変遷 【太陽がいっぱい】
【64分】市場を散策したトムがホテルに帰って食事をしている。ホテルマンはフロントで「グリンリーフ!」と連呼する。すると、フィリップの友人であるポポヴァ婦人がその声を聞きつけ、フィリップを探し始める。ポポヴァ婦人は同時に、フィリップを捜索しているフィリップの恋人、マルジュに居場所を伝えようと公衆電話が並ぶ電話ボックス(電話ルーム?)へ向かう。
この電話のシーンが現代では難解である。ポポヴァ婦人は電話を交換する装置がある場所へ移動し、その前に座る交換手に「モンジベロの224を」と言う。電話の交換手は言われたとおりマルジュの「モンジベロの224」へ電話する。その後、交換手はポポヴァ婦人に「8番の電話を」と移動を促し、繋がった電話を8番の公衆電話へ繋ぐ操作をする。
1960年は2024年から見ると64年前である。1960年代はまだまだ手紙と固定電話の社会であったことがうかがえる。
観客の度肝を抜くラスト トム・リプリー(アラン・ドロン)のセリフ 【太陽がいっぱい】
【115分】ラストシーンは「映画史に残る衝撃のラスト」と言えるだろう。これだけ深い余韻が残る映画は滅多にない。
この映画をサスペンスと知らずにリアルタイムで映画館に行って観られたら、どんなに素晴らしいことだろうと思った。
「太陽がいっぱい」(1960)の主題歌(挿入歌)
作中に何度も挿入されるのはニーノ・ロータ(Nino Rota)のモンジベロ(Mongibello)という曲だ。
地中海(ティレニア海)の風景や物語と合い、もの悲しく印象的な旋律である。
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