小津安二郎作品が面白くない、つまらないと思われてしまう理由を考えてみる

小津安二郎の映画をつまらないと感じている昔の青年 映画あれこれ

馴染みが無い白黒映画

 そもそも白黒映画を観ることに慣れていないので、白黒の作品を観ただけでなんだかつまらなく感じることがあるだろう。
 私は子供の頃に、親と黒澤明監督作品を観ていて「いったい何が面白いのだろう?」と感じたのを思い出す。普通の子供には黒澤作品の良さを理解するのは難しいだろうし、とてもつまらなく見えると思う。
 そして結果として、白黒映画は私にとってパブロフの犬が唾液を出してしまうように、見ると反射的に眠気を催す作品群となってしまった。

登場人物達の品が良すぎて感情移入できない

 東京物語では主人公の平山(笠智衆)の息子が開業医をしている。1950年代当時の戦後間もない社会で、息子が医院を開業している平山は紛れもなく社会の上位層にあると思う。また、紀子(原節子)が他の女性たちと話す日常会話でも、話し方や仕草から品の良さが画面を通してビンビンと伝わってくる。
 観る人によってはそれらの描写が鼻につくことが想像できる。

古すぎる会話や価値観が理解できない

 登場人物たちの価値観が現代とは相容れないことがあるだろう。1950年代はそこらじゅうに戦争未亡人がいるような環境だから、とても現代には彼らの価値観がすんなり入ってこない。感情を表に出さず、辛さを耐え忍ぶのが良いとされているような気がする。泣いたり笑ったりを簡単に表に出す映像に慣れてしまうと、小津安二郎監督作品は抑揚無く感じられる。
 しかし私は、そんな彼らの、彼らにしか無い喪失感に強く惹かれる。

冒頭は「張り手型」ではなく「撫ぜ型」

 映画の出だしには「張り手型」「撫ぜ型」がある。張り手型は「なんだろう?」と冒頭から一気に観客の興味を惹く構成である。張り手型の代表作には「マルサの女」が上げられるだろう。なんと言っても、男性の痴呆老人が女性看護師の乳首を吸うシーンから始まるのだから。
 一方、典型的な撫ぜ型は、東京物語をはじめとする小津安二郎監督作品に多いと思う。
 撫ぜ型は冒頭でゆっくりと説明的な映像が流れる構成だ。東京物語では、出だしで街の風景を映したり、あまり意味が無いと思われるような日常会話のやりとりを映したりする描写だ。

 映画でもドラマでも、またはアニメでも、最近は撫ぜ型の作品はあまり観られることが無くなっている。観る機会が少ない撫ぜ型の映像が流れると眠くなるのは分かる気がする。

 小津安二郎作品が面白くない、つまらないと思われてしまいがちな理由について考えてみた。1950年代がどんな社会だったのか想像を巡らせてから代表的な小津安二郎作品を観れば、どこが良いか理解できると思う。

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