フランスから日本へ帰国後の渋沢栄一

明治元年12月の横浜港に立ちすくむ孤独な男 いま思うこと

フランスから日本へ帰国後の渋沢栄一

 パリに滞在していた渋沢栄一(1840-1931)は明治元年(1868年)12月、1年8ヶ月ぶりに横浜港に降り立った。1868年は慶応4年(明治元年)で、着いた頃には戊辰戦争はほぼ決着し、戦場は箱館に移っていた。

 2人の従兄弟が亡くなったことを知った渋沢栄一はどんな気持ちだったろう。明治20年(1887年)、渋沢栄一が47歳ごろに発表した雨夜譚(渋沢栄一自伝)を読み、47歳から28歳のころを回顧した記憶をたどる。

 もう一つは、明治33年(1900年)渋沢栄一の娘・穂積歌子(1863-1932)が書いた「はゝその落葉」の一節を読み、37歳の穂積歌子が5歳だった明治維新当時を振り返った一節を引用する。

 引用元は公益財団法人渋沢栄一記念財団のデジタル版『渋沢栄一伝記資料』だ。

雨夜譚(あまよがたり)で語った帰国当時の渋沢栄一の気持ち

 横浜港に着いたころの描写を引用する

 杉浦と共に神奈川宿に逗留して居て、十二月の六七日頃に、東京へ帰つて来て、段々と様子を見聞してみると、維新の騒動に付て、彼の友達は脱走したとか、此の親戚は死んだとか、種々に変化して居る、

 又故郷に居た時、共に大事を謀つた尾高長七郎はと聞てみると、其年の夏、幸に出獄はしたけれども、自分が日本へ到着する前に死去したとの事、

 其弟の平九郎は、自分が昨年仏蘭西に行くに就て、見立養子といふ名義で相続人に貰つて、養子届をしてあつた、是は幕府の制度は外国行の者は万一外国に於て死去の事あらんも測られざれは見立養子を為すを要することなりしが、此の平九郎も此の度の騒動に就て、其実兄の尾高惇忠や同姓の喜作などに随従して、諸々方々の戦争に出合ひ、遂に飯能宿近傍の黒山といふ所で討死をしたといふ話で、実に見るもの聞くもの、皆断腸の種ねならざるはなしといふ有様であつた、

 其処で我が一身はと反省してみると、海外万里の国々は巡回したといふものゝ、何一つ学び得たこともなく、空く目的を失つて帰国したまでの事であるし、又同姓の喜作は箱館に往つて、死生の程もはかられず、其他の親友も多くは死去、又は離散の姿で、実に有為転変の世の中であると、嘆息の外はなかつた、

(雨夜譚 (渋沢栄一述) 巻之四・第六―一一丁 〔明治二〇年〕)

雨夜譚(あまよがたり)で語った帰国当時の渋沢栄一の気持ち―現代語訳

 横浜港に着いたころの描写を現代語訳

 杉浦と一緒に神奈川宿に滞在していたが、十二月の六、七日ごろに東京へ戻ってきて、あちこちで話を聞いてみると、維新の騒動にまつわって、あの友人は脱走したとか、この親戚は亡くなったとか、さまざまな変化が起きていた。

 また、故郷にいたころ、一緒に大事を謀った尾高長七郎はどうなったかと聞いてみると、その年の夏に幸いにも出獄はしたものの、自分が日本へ帰着する前にすでに亡くなっていたとのことだった。

 その弟の平九郎は、自分が前年にフランスへ渡るにあたって、「見立養子」という名目で相続人として迎え、養子の届けを出してあった——これは幕府の制度として、外国へ行く者は万一現地で死去することもあり得るため、あらかじめ見立養子を立てることが求められていたからである——。その平九郎もまた、今回の騒動において、実兄の尾高惇忠や同じ渋沢姓の喜作などに従って各地の戦争に加わり、ついに飯能宿近くの黒山というところで討ち死にしたという話で、見るもの聞くもの、すべてが胸を締め付けずにはおかない有様であった。

 そこで自分自身のことを振り返ってみると、海外の遠い国々をひと巡りしたとはいえ、何ひとつ学び得たものもなく、むなしく目的を失ったまま帰国したに過ぎない。しかも同姓の喜作は箱館へ行ってしまい、生死もわからない。そのほかの親しい友人たちも多くは亡くなるか、散り散りになってしまって、まったく世の中の移り変わりの激しさに、ため息をつくほかはなかった。

(現代語訳:斯鬼)

娘から見た帰国当時の渋沢栄一、「はゝその落葉」(穂積歌子著)

 著者の穂積歌子は1863年生まれで、渋沢栄一がフランスより帰国した1868年はまだ5歳で記憶が曖昧だったろうと思われる。引用に「とぞ」「となん」などの伝聞の語尾が多用されている。執筆は明治33年で37歳、まだ当事者たちからじかに話しを聞ける年齢だ。

引用

 船路いかにとあやぶミつゝ待ちこがれ参らせつる我大人ハ。この年十二月三日といふに恙なく横浜の港に帰り着かせ給ひ。其月の末つかた。六年の永き年月をよそにのミ見給ひたる故郷人をなぐさめんとて。家にぞ帰らせ給ひける。

 二ばしらの君を始め参らせ、母君叔母君たちは。恙なき御姿を見給ひて。かきくらしふりしきりにし長雨のはじめて晴れて。空うらゝかにさしのぼる日の影にむかひたらんがごとく打ちよろこばせ給ひ。うれしきも又御袖のぬれしなるべし。かくて過来しかたの御物がたりを聞かせ給ひて。

 大人にハのどけき春にも得あはずして。世を早うし給ひたる長七郎君。平九郎君をふかくいたませ給ひ。殊に尾髙の祖母君の。此年頃おのが御子たちの上にもまして大人が御身をおぼしわづらはせ給ひけるに。御生前に帰り来まして。恙なき面せを見せ参らするを得ざりし事を。

穂積歌子『はゝその落葉』巻之一(明治33年)

娘から見た帰国当時の渋沢栄一、「はゝその落葉」(穂積歌子著)―現代語訳

 船路がどうなることかと案じながら待ちわびていた我が父上は、この年の十二月三日に、つつがなく横浜の港にお帰りになった。そして月の末ごろ、六年という長い歳月をよそに過ごしてきた故郷の人々を慰めようと、家へお帰りになった。

 二人の若君をはじめ、母上や叔母上たちは、お元気なお姿を見て、かき曇って降りしきっていた長雨がようやく晴れ、明るい日差しがさし昇ってくるような思いで手放しに喜ばれた。うれしさのあまり、またお袖が濡れたことであろう。こうして過ぎ去った日々のお話を聞かせていただく中で、

 父上は、穏やかな春にも巡り会えぬまま早世された長七郎君と平九郎君のことを深く悼まれた。とりわけ尾高の祖母君(※)が、この数年来、わが子たちのことにも増して父上のご身上を気にかけておられたのに、ご存命のうちに帰ってきて、つつがないお顔をお見せすることが叶わなかったことを、父上はひどく悔やんでおられた。

穂積歌子『はゝその落葉』巻之一(明治33年)現代語訳:斯鬼

※「尾高の祖母君」とは、渋沢栄一の叔母であり渋沢平九郎や尾高惇忠の母「やへ」のことだ。

幕末から明治は過酷な時代

 従兄弟を何人も亡くしたり、内戦で函館に行き消息不明だったり、現代の感覚からだと推し量ることが難しい過酷な時代だったのだと感じた。

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