渋沢栄一、渋沢(尾高)平九郎、尾高惇忠
渋沢平九郎(1847-1868)と渋沢栄一(1840-1931)はいとこ同士で、渋沢栄一からみると7歳年下で叔母さん「やへ」の子である。「やへ」は尾高勝五郎と結婚していたので、もともとは尾高姓だ。渋沢栄一は1867年にパリに渡航するのだが、何かあったときのために見立養子(相続人)にした。兄は富岡製糸場の初代工場長で渋沢栄一の家庭教師的な存在だった尾高惇忠(1830-1901)だ。
また、身長が180近くあったとされ、幕末3イケメン!に数えられている。

写真は「青天を衝け」放送時のチラシと思われる。
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渋沢平九郎(wikipedia)
埼玉の戊辰戦争
埼玉西部の飯能市では1868年5月(旧暦)に戊辰戦争があった。埼玉唯一の戊辰戦争とされている。所属していた振武軍は敗走し、渋沢平九郎は飯能から顔振峠をぬけて越生の黒山に下りた。越生町黒山で広島藩士に出くわして戦い、致命傷を負って自刃した。
渋沢平九郎自決之地
2026年5月17日、渋沢平九郎自決之地の碑文を見に行った。汗ばむ陽気で夏のようだった。
渋沢平九郎之墓
渋沢平九郎埋首之碑
越生法恩寺境内にある渋沢平九郎埋首之碑
黒山三滝
黒山三滝に向かう道にあった渋沢平九郎の説明看板
雨夜譚(あまよがたり)(渋沢栄一の自伝)を読んで思ったこと
渋沢栄一は1868年10月19日にマルセイユを出発し、12月16日に横浜港に着いた。現代と違いなかなか情報が入らないなか、横浜港到着後に見聞きした戊辰戦争の様子は衝撃的だったろうと思う。見立養子(相続人)にした7歳年下の従兄弟が亡くなって、自分が生き残った渋沢栄一の気持ちを考えると悲しくなる。
1868年に28歳だった渋沢栄一は、1931年に91歳で亡くなるまで60年以上に渡り、戊辰戦争で親族を亡くした喪失感を抱えながら生きたのだと思った。


















